(7)フィリピン
2016年10月2日、2016年度ダスキン研修生のキットさん(フィリピン)にインタビューした内容を紹介します。
キットさんへのインタビュー
研究員①:今日は、わざわざお越しいただきありがとうございます。ただ今よりインタビューを開始します。まず、あなたのお名前は何ですか?
キット:私の名前は、キットです。
研究員①:手話ではどのように表しますか?
キット:(指文字「K」の形で、親指と中指を2回付け合わせる)です。
研究員①:出身地はどちらですか?
キット:私はラプラプ(両手「L」の形で、2回ひらひらさせる)出身です。
研究員①:家族の構成を教えていただけますか?
キット:私の家族には、健聴の両親と、5人の兄妹がいます。長女がろうで、長男が私です。3番と4番が健聴で、5番目もろうです。右手だけで表すと、5人いて、そのうち真ん中(中指と薬指)が健聴なので、ここを折り曲げると、「I Love You」の形になります(笑)。
先祖がろうなので、私たちがろうになったのは、遺伝性のものだと思います。
研究員②:学校はどちらに行かれていたのですか?
キット:まず、私の母親は、健聴児と一緒に勉強させたがったのです。聴覚活用や健聴児との関わりを経験させたかったらしく、通常学校に行かせました。しかしながら、実際には行き詰まりも多く、いじめも受けました。
ただ、この経験のおかげで口話を習得することができ、このことには感謝しています。
長女と一番下の妹はろう学校に行きました。なぜなら、彼らは聴力がほとんどなかったので、ろう学校に行くことになりました。
研究員②:ろう学校はラプラプにあるのですか?
キット:いえ、セブ島内ですが、遠くにあります。
研究員②:寄宿舎に泊まっていたのですか?それとも自宅から通学?
キット:私たちが実際に育ったのはセブなんです。今は、仕事のためにラプラプに移り、そこで暮らしています。
研究員①:確認ですが、一番上と下の兄弟がろう学校に通ったのですね。
キット:はい。姉は大学に通い、卒業しました。一番下は今、大学生です。19歳です。
健聴者と一緒に学んでいます。セブ内にある大学です。
講義を受ける時は、母が通訳を務めています。本当は全ての授業に、正式な通訳者を派遣して欲しいのですが、費用を自分で支払うことになっています。それだと難しいので、月曜、水曜、金曜に正式の通訳を依頼し、火曜と木曜は母が通訳しています。
大学には通訳制度があるのですが、学費と通訳派遣費用の両方を支払う必要があるので、負担が大きいです。
研究員①:あなたの母親が通訳しているのは、仕事としてですか?それともボランティアですか?
キット:ボランティアです。
研究員②:長女が通った大学はマニラですか?
キット:いいえ、セブです。兄妹全員セブにいます。マニラは遠いです。
研究員②:ろう学生の在籍が多い大学はないのですか?
キット:ありません。
研究員③:兄妹とは何歳差なのですか?
キット:長女が33歳で、私が31歳です。一番下が19歳です。
研究員①:兄妹みんな手話を使いますか?
キット:はい。手話でコミュニケーションをとります。手話といっても、ホームサインが中心です。
研究員③:父親もできるのですか?
キット:はい。家族全員が手話できます。
研究員①:確か…キットさんは、ラプラプろう協会の協会長を務めておられるのですよね?
キット:はい。1月に選挙が行われ、当選しました。今は会長を務めています。
研究員①:ろう協会が立ちあがったのが2013年で、あなたは第2代目ということになりますね。
キット:はい。
研究員②:会長不在の間、協会はどうしているのですか?
キット:副会長に任せています。
研究員①:なるほど。ラプラプはろう者がどのくらいいるのですか?
キット:2013年以前は協会が無かったので、どの位のろう者がいるのかが分かりませんでした。協会ができてから、まず学校などの在籍者数を把握したり、イベントを催して集まった人の数を合計したりして、推定しました。その結果、321人となりました。
研究員②:321人ですか?すごい。多いですね。
キット:はい、多かったです。
研究員①:そのような人たちは学校に通っていたのですか?
キット:いいえ、通っていません。
研究員②:年代層はどのような感じでしたか?
キット:年配の方が多かったです。
研究員①:手話はどのように覚えるのですか?
キット:手話ができず、うまく話せない人を見つけたら、ろうだと分かりますので、手話を教えようとするのですが、拒みます。口話だけにこだわりますが、その意思を尊重して、干渉はしません。
研究員①:若い人たちも同様なのですか?
キット:同様です。教師が手話できないので、教える時は板書するしかない。ろうの生徒たちもそれを書きとるだけなので、手話を習得しません。それに頭を悩ませています。
セブには、ろう学校小学部から高等部あります。ただ、ろう者はあまり高等部には進みたがりません。セブ島が遠いのと、貧困が理由になっています。
研究員①:ろう者たちは学校を卒業した後、どのような仕事をされているのですか?
キット:わたしたちの協会は、手話(右手<I Love You>の親指に右手拳をあてる)と表します。「ラプ-ラプ(注:ラプ-ラプ市の英雄となっている、伝説的な人物)がろう者をサポートする」という意味です。
まず、ここにろう者が集まり、ろうの問題を議論しました。最も重要なことは、啓発です。ろう者に仕事を遂行する能力があっても、エントリーの段階で除外されてしまいます。健聴者を優遇することが多いのです。
なので、ろう者に関する情報を広めていきました。そうしていくうちに、市が私を含めろう者4人の採用を決めました。
私は、相手の言うことを聞き取ることや、口話で話すことができますので、市長からも信頼を得て、次第に仕事を貰えるようになりました。職員とろう者がコミュニケーションできないときは、私が間に入って通訳することもありました。あとは筆談でコミュニケーションをとりながらやっていきました。3か月後、市長はろう者でも仕事ができるという評判を聞き、さらに4人のろう者を採用しました。そうしていくうちに徐々に増えていき、今となっては16人のろう者が働いています。業務内容は事務職です。
研究員①:あなたが、市で働く最初のろう者なのですね。
キット:私を含め、4人のろう者が初めて働きました。
研究員①:ろう者の働きっぷりを市が認め、徐々に増えていったのですね。
キット:ろう者の働きっぷりは素晴らしいものです。なぜかというと、健聴者はおしゃべりしながら仕事する。一方、ろう者は集中して取り組むので、仕事が早いです。まわりに話し相手がいないので、その分集中して仕事できます。
17時に仕事が終わり、その後17時半位にろう者同士で集まって遊んだりしています。
以前は、健聴者もろう者をからかっていましたが、今では仕事ができると分かり、何も言わないようになりました。
研究員①:ラプラプ市での事例ですね。
キット:そうです。
研究員①:なるほど。分かりました。ろう協会は、日曜は何をされているのですか?
キット:はい、市の職員に無償で手話を教えています。市に採用された代わりに、ろう職員は手話を教えることになっています。13時~16時の間に、自由に参加できる教室を開催しています。15~16時の間には、交流の機会を設けて、イラストを見せて、手話だとどのような表現になるかを考えさせたりしています。仕事を与えてくれている市に恩返しする気持ちでやっています。
日本に青年部があるのと同様に、フィリピンにも青年部があります。手話はこう(左手「I Love You」に右手「Y」をつける)です。ろう者の権利を確保するために活動しています。知識を身に付けて、力を付けて、ラプラプの皆の力を合わせて、政府と交渉できるようになりました。それから徐々に繋がりができるようになりました。
しかし、フィリピンにいる他のろう者は違います。日本も同じかどうかは分かりませんが、他の障害者はろう者をサポートしません。なぜかというと、ろう者はろう者同士だけで集まり閉鎖的になっているからです。他の障害者を受け入れようとしません。
私は、全ての障害者が仲良くすべきだと思っています。なぜなら、皆同じ事務所にいるので。
そこで、私はろう者と他の障害者の統合を試みました。今は、ろう者にも文化があると認識してもらったり、こちらも障害者側の困難を考えたりして、コミュニケーションを取っていきながら団結していくようになりました。
以前はフィリピンのどこも同じで、他の障害者と仲たがいしていましたが、そのままでいたら助けてくれる人がいなくなるので、関わりを大事にしようということになりました。私たちは手を使って仕事することができ、彼らは声を使って話すことができるので、お互いのいい面を活かして助け合っています。
ろう者の自己主張が多くなるのは文化であり、自然な事だと思っています。
研究員③:なるほど。
日本に来て、何を学びたいですか?目的は?
キット:最初は、ダスキン(※)研修を受けることは頭にありませんでした。フィリピンの青年部に入った時、フィリピンからダスキン研修に行った2人と会いました。彼らと違って、私はインテグレーションを経験してきました。健聴者が集団で話しているときは、私は何も分かりません。
私の姉も協会長を務めていました。セブの協会です。そこでイベントなどがあるときに、通訳などして、手伝いに行っていました。そこで目にしたのは、健聴者が主体になっていることです。インタビューなども口話で行い、ろう者は置いてけぼり。平等である必要がある、どうにかできないものか考えていたところ、フィリピンろう青年部と出会いました。そのときにダスキンの研修を終えたろう者が、日本での研修について講演していました。
「自分も研修に申し込めばよかったなぁ、でももう歳をとっているから無理だろうなぁ、残念だなぁ。まぁいいや。」と思いながら聞いていました。そこで多くのことを学びました。ろう者のことや、法律など。
その後、市が研修のために私をマニラを含めた色々なところに行かせ、そこでいろいろ見て学びましたが、ほとんどのろう者はインテグレートしており、他の障害者と一緒に学んでいました。
私はろう者に対する配慮が足りないと思いました。
その後にフィリピンろうあ連盟長と会いましたが、「ダスキンの研修を受けたいか?」と聞かれました。「冗談はやめてくださいよ、私は年を取っているから無理です」と答えましたが、「そんなことはない」と諭されました。
後ほど書類が郵送され、それを読んでいるうちに試験を受けてみたい気持ちが高まってきました。
私には、ラプラプ市ろう協会を立ち上げたり、空港から依頼を受けて、職員に手話を教えるという経験がありました。盲者には点字ブロック、車いすの人にはスロープが必要だが、ろう者には何をすればいいのか?手話だということで、職員に教えて欲しいと依頼され、快諾しました。今年の話です。今でも他の人が教えていて、継続しています。
私はそのようなことをもっと増やしたい。そのために様々な知識を身に付ける必要があると思い、ダスキンを受けました。
帰国後は、まず、ラプラプ市の範囲で活動したいと思います。いきなりフィリピン全土ではなく、地域レベルで活動して、啓発していきたいと思っています。
私がモデルとなって、それから徐々に広まっていけばいい、という考え方です。
これが今回の研修の目的です。
研究員②:将来的に、フィリピンろう連盟の理事長になるのはどうですか?(笑)
キット:いやいや(笑)
正直に言うと、今混乱しているんです。私はろう者なのか、難聴なのか、分かりません。
「ろう者なのか?」と言われると、正直戸惑います。難聴者協会はありませんし、生まれたときは難聴なので。
研究員①:アイデンティティの問題ですね。
キット:ただ、私はろう者と共に育ってきました。貧しい人たちも見てきました。
今は若い世代を育てたいです。若い人たちをサポートしていきたい。
フィリピンでは、高齢者はほったらかし。それぞれ自分の家にいて、何もやらない。それを見て、何ができるかを考えたところ、「教育」に繋がりました。そのため、最初はイギリスの方が参考になると思って希望していたくらいです。
研究員①:いま、公務員の仕事を休職しているのですよね。1年間ダスキンの研修に赴くことを伝えたとき、どんな反応がありましたか?
キット:書類を見せたところ、「いいね」と言われました(笑)
市長が障害者に対して理解があり、障害者協会の長と関わりがあったというのも大きいようです。
研究員④:フィリピンで使われている音声言語と手話の間で、それぞれ影響はありますか?
例えば、キットさんが育った学校で使われている言葉はセブ語だと思いますが、それが手話に影響を与えた面はありますか?
キット:ろう者はセブ語を話せません。単語程度は知っているのですが、文を作ることはできません。英語のみです。フィリピンは各地や島によって手話が異なり、86種類の手話があると言われています。そのため、講演や会合などでは手話で言われていることの意味が理解できませんが、コミュニケーションレベルでは、お互い調整しながら話すので、理解できます。マニラの人の講演は、セブのろう者にとっては意味不明です。
研究員①:ラプラプ地域でも、場所によって手話が異なるのですか?
キット:同じです。
研究員①:たとえば、手話はアメリカ手話の「Thank you」でも、口形はセブ語。ということはありますか?
キット:いいえ、そこは英語になります。
研究員①:セブ語が出ることはないのですね?
キット:それは難しいです。セブ語の発音はろう者にとって難しい。英語の方が簡単です。学校では英語を用いて教育し、セブ語を取り入れていないからです。また、セブ手話というものはありません。教師はアメリカ手話のみ知っていますので、書記英語のみ教えます。昔、手話を学ぶためのテキストもなく、教師が自ら手話を作る力もなかったので、アメリカ手話を取り入れる、ということになりました。
研究員①:例えば、家族の中の一人が英語を話すことができず、セブ語を話したとすると、ろう者には理解できるのですか?
キット:それはまちまちですね。例えば私の家族では、両親が教育してくれたので、ビサヤ語が理解できるようになりました。ただ、他のところではほったらかしが多いようです。家族のサポートがあるところもあれば、ないところもあります。
つまり、相手がビサヤ語を理解していたのであれば、家族のサポートがあったということです。逆に分からなかった場合、家族がほったらかしにしていた可能性があります。
なので、家族を集めて、教育をしています。法律を利用して、無料の食事つきです。
フィリピンでは無料の食事と無料のスペースがあれば、人が集まるので、それを利用して教育しています。
研究員①:食事や労働の費用は?
キット:食事は市が用意してくれます。お金の助成はありません。平日はろう者が市で働いているので、そのお礼として、市から援助が出ます。
市長は、ろう者の自主性を尊重し、ろう者に考えさせるようにしています。
研究員①:長女がセブ協会の長なのですよね。で、キットさんがラプラプ協会の長。それぞれでスポーツなどのイベント企画はしているのですか?
キット:以前は政府からの助成があったのですが、あることがきっかけで打ち切られたんです。ある通訳者が不正を行ったためです。何も知らないろう者に手伝うよと声かけ、ろう者の希望を聞きだして仲介役を受け持つようにしたのです。その後、例えば援助金を受け取たときは、ピンハネして一部をろう者に少なく渡したんです。後になって市に不正がばれ、援助が廃止されたのです。
今はラプラプのろう協が頑張っています。研修によって知識を身に付けました。
以前は1協会のみ、広い範囲でした。それが今になって変化していきました。
2協会になり、その後4協会になりました。
ラプラプろう協はどうやって市の援助を受けているのか尋ねられ、手伝いました。その後、新しい協会を立ち上げるようになり、それが今となっては4つの協会になったわけです。
研究員①:市による助成が廃止されたのは、何年前のことなのですか?
キット:2008年のことです。
研究員①:となると、8年前のことですね。
キット:はい。前はろう者が主体的になっていたのですが、徐々に聴者・通訳者の立場が大きくなっていきました。例えば、ろう文化に関する講演も聴者が話すんです。ろう者はそれを疑問視しています。今は再びろう者が存在感を高めてはいますが。
研究員①:通訳者は追放したのですか?
キット:いいえ、ラプラプ協会ができたとき、注意深く色々な人を採用しました。通訳者の中には、母親、先生、警察、等がいます。
初めて手話教室を開いた時、代金なしで食事を提供しました。手話を教えて、最終的に残ったのが10人でした。人物を注意深く観察し、以前のことが再び起きないようにしています。
これは、あくまでラプラプのやり方であり、セブの方には介入しないようにしています。お金に関することは自分たちでやり、聴者が入り込めないようにしています。
研究員①:なるほど。とても良い内容をありがとうございました。これでインタビューは終わりです。
キット:ありがとうございました。