(9)ウクライナ ②日本への避難
2022年9月25日、全国手話研修センターにて、ウクライナから日本に避難されたウクライナろう者4人に対してインタビューした内容をご紹介します。
※本インタビューは、話者の主観で語られている部分があり、実情と異なる場合があります。予めご了承ください。
ボズコさんへのインタビュー
研究員:おはようございます。サインネームは何でしょうか。
ボズコ:私のサインネームは(日本の指文字の「コ」を額に2回当てる)ボズコです。
研究員:どこに住んでいましたか。
ボズコ:首都のキーウでした。
研究員:ロシアによる侵攻を受け、ウクライナからどうやって避難したかお伺いしたいです。
ボズコ:そうですね。お話します。
2月24日朝4~5時頃に起き、いつも朝6~7時に朝ごはんを食べてから勤務しますが、その日は友人等からウクライナの東部に侵攻を開始した等のメールが止まりません。しかし私の兄弟はよくロシアに行くし、ロシアの友だちもたくさんいるので、あり得ません。家の破壊や戦争等の様子の動画が送られてきましたが、まだ信じることができず、いつものように仕事に出ました。
職場で「早く避難しなさい。ロシアから250㎞の距離だが、攻めてきているよ」と言われました。また、ろう友人たちからも「今すぐ車で避難しろ」とのメールが来ました。その夜、避難した方がいいかわからず、友人の家に行って相談しました。みんなもどうすればいいかわからず混乱していました。帰宅してから戦争が始まったことをお母さんに尋ねましたが、何も言ってくれません。日本に一緒に行った友人が翌日に「あなたのお母さんと私の車で避難しよう」と声をかけてくれました。2月26日の朝、友人が車で迎えに来てお母さんと一緒にキーウから100km離れた田舎に避難しました。友人宅で5家族が集まりました。
そこでヨーロッパに避難した方がいいか考えたりしたが、どうすればいいかわからず泣いたりするなど大変でつらかったです。5家族で話し合った結果、ヨーロッパに避難することになりましたが、安全ルートがわからない状況でしたのでいろいろな情報を収集しました。2月27日の朝、5台の車で出発しました。車で通った道に空爆や砲撃によって破壊された跡があって夜を徹してルーマニアの国境に何とか無事に着きました。
そこは安全な場所でしたが、戦闘機の音が聞こえていたようです。ルーマニアに入国するまで2~3日間かかるとわかったため、モルドバに行くことになりました。モルドバに着いたら宿泊や食事等あたたかい支援をいただきました。私のグループの中に1歳、3歳、6歳、11歳の子どもがいたので、とても安心しました。
ルーマニアの国境に着いた時、11歳の子どもは親が一緒でないためルーマニア入国を拒否されました。その子の両親はたまたまスポーツ大会関係でトルコにいることを伝え、急に侵攻が起きたため一生懸命説得してようやく許可がおりました。
2日間ルーマニアに滞在しました。その間、イタリア、フランス、ドイツ等の友人との連絡を取り合った結果、イタリアに行くことを決めました。私のグループはみんな、友達や家族等の連絡が途絶えたり失ったりして悲しいメールがたくさん来て心身ともに疲れていました。イタリアに到着するまで8日間かかりました。
イタリアでは、ウクライナろう者のために用意された施設で、病院や政府関係等の支援をいただきました。実は、最初に5家族で集まったところは、私たちが出た2日後、空爆で破壊されたのです。ウクライナの警察がその破壊された様子を撮影した写真を持っていました。だからもし、その場にいたら、日本に来られなかったでしょう。
1か月間イタリアで過ごしましたが、ろう者たちは元気がありませんでした。ずっと食べて寝るだけの生活を送ってきましたから。施設で亡くなったろう者もいれば友達を通してフランスやドイツに向かうろう者もいました。1か月後、心配してくれた吹野さんのメールが何度も来て躊躇がありましたが、ようやく日本に来ることができました。今思えば、本当に来てよかったです。感謝しています。
研究員:日本での生活はどうですか。
ボズコ:日本の皆さんの支援のおかげで、旅行などで心が落ち着き、安心できる状態になりました。感謝してもしきれません。ありがとう。
オレクサンドルさんへのインタビュー
研究員:避難に関して大変だったことを教えてください。
オレクサンドル:今年(2022年)1月に、ロシアから侵攻されるという噂が流れ始めましたが、自分はロシアの人たちと仲がいいので、そんなはずはないと信じていました。
2月26日の夜、何か不吉な予感がして、落ち着きませんでした。27日の朝、起きてスマートフォンを見ると、「ロシアとの戦争が始まった」という知らせが次々と届いていました。
友達から「早く逃げろ」と言われましたが、「ロシアがここまで来るはずがない」と思っていました。
いつも通り職場に行き仕事をしていると、轟音がひびき、いくつかの飛行機が空を飛んで行きました。
その日は早めに家に帰りましたが、妹から「地下に避難して」と連絡がありました。
隣の家の人からも「早く地下に逃げて」と言われ、逃げては地上に出て、逃げては地上に出て…ということを繰り返していました。
やがて億劫になり、地上で普通に過ごしていたら、飛行機が次々と家の上を通過して行きました。飛行音がわかるくらい大きかったです。
次の日、ろうの友人から「本当に危ない。逃げろ」と言われ、避難を決意しました。すぐに準備して車で脱出しました。
6km離れたところに向かい、他のみんなを乗せました。
ろう者のみんなと会うことができ、安心しました。
1人でいるときはあれこれ考えて落ち着きませんでしたが、ろう者の友人と会うことで落ち着きを取り戻すことができました。
みんなとこれからどうするかを話し合い、私は今いる場所に滞在することを望みました。
しかし、次の日、軍隊が戦争の準備をしているのを目にし、不安になりました。
近くにある橋が破壊されたという情報も入り、その辺りをうろうろしていると、軍の人から「馬鹿!何でここにいる!早く逃げろ!」と言われました。
再度みんなで話し合い、脱出することを決めました。
車でキーウから離れる時、通行止めのバリアがいくつも設置されかけていました。ギリギリで通行することができたので、「早めに避難することにしてよかった」と思いました。
空には、ウクライナかロシアかわからないような飛行機が飛び交っていました。
路上には破壊された車がいくつもありました。
他の国の国境近くで、ろうの友人の家に泊まらせてもらいました。
「ここは戦場から離れているから大丈夫だろう」と思いましたが、やがて飛行音が聞こえてくるようになり「こんなところにまで迫ってきているのか」と感じました。
そこで、他の国に逃げることを決意しました。
ウクライナは国を守るため、特別な法律を施行しました。
男性はウクライナに留まらなくてはならないというのです。
国境で軍隊に検問され、「男性は引き返す必要がある」と言われ、一旦引き返しましたが、別の検問所では、自分たちはろう者であることを説明すると、通過させてもらえたので、胸をなでおろしました。
ヨーロッパ各国を移動しましたが、みなさん手厚い支援をしてくださり、大変嬉しく思いました。
8日間移動し、最終的にイタリアに到着し、1ヶ月ほど滞在しました。
途中で吹野さんから連絡を受け、心配の声をいただきました。
そして「日本においで」と言われました。
非常に迷いましたが、仲間たちとの話し合い、熟慮の末、日本行きを決めました。
今とにかく言いたいのは、日本の皆さんに心から感謝している、ということです。
アンドレイさんへのインタビュー
研究員:戦争が始まったあとは、仕事に支障がでましたよね。
アンドレイ:2月24日、スマホに戦争が始まったという知らせが入り、それから家族と一緒に荷物をまとめて30キロくらい離れたろう者の友人の家に逃げました。
そこにいた子どもの両親がたまたまスポーツ関係でトルコにいたため、自分がその子どもを引き取り、妻と一緒に子どもが必要な身分証明書などの書類をキーウまで取りに行ったりしていました。
キーウまでの道のりの途中に橋があるのですが、橋は崩壊されてしまっていました。警備員から、この先は行くことができないと言われ、遠回りをして行きました。そこでも銃をもった隊員から呼び止められましたが、書類を見せ事情を話して、通してもらい、ようやくたどり着きました。
行く時は、車などはまったくなかったのですが、戻る途中で、ものすごく渋滞していてたどり着くまで時間がかかり大変でした。
そこにいた子どもの両親がたまたまスポーツ関係でトルコにいたため、自分がその子どもを引き取り、妻と一緒に子どもが必要な身分証明書などの書類をキーウまで取りに行ったりしていました。
キーウまでの道のりの途中に橋があるのですが、橋は崩壊されてしまっていました。警備員から、この先は行くことができないと言われ、遠回りをして行きました。そこでも銃をもった隊員から呼び止められましたが、書類を見せ事情を話して、通してもらい、ようやくたどり着きました。
行く時は、車などはまったくなかったのですが、戻る途中で、ものすごく渋滞していてたどり着くまで時間がかかり大変でした。
話は前後しますが、先ほどの続きで書類を取りに行った時に、キーウのタワーが爆撃されていて崩壊された実物を目の前にし、怖さを改めて実感しました。それから、家族内でいろいろと議論をし、翌日、移動することに決めました。その途中では、車が壊されていたり、兵隊から銃を向けられたりと、道を定めることにも困難が伴いました。その時は、慌てることはせず、落ち着いて運転を続け、ようやく国境まで2日間程でたどり着きました。
運転中に気を付けたことは、子どもが衝撃的なものをできるだけ見ないように、子どもに気を配りながら運転したことです。子どもを守ることはとても大切なことです。
ヨーロッパに到着し、その後は、日本の方の案内を受けて、今に至るというわけです。
運転中に気を付けたことは、子どもが衝撃的なものをできるだけ見ないように、子どもに気を配りながら運転したことです。子どもを守ることはとても大切なことです。
ヨーロッパに到着し、その後は、日本の方の案内を受けて、今に至るというわけです。